結工房は、自然と共にある生活を目指す、台所草木染め工房です。宮城県仙台市青葉区。染め教室/織り教室/季節の草木染め/藍染のハンカチ/繭から始まるワークショップ

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奥州座繰りの技術を次代に残す奥州座繰りの技術を次代に残す

20年前に大島紬の製織を習い始めてからずっと、私は糸作りからの制作をしたいと思いながらもその思いを果たせずにいました。
しかし岩手県で行われた「いのち蘇る布細工展」 ―森田珪子先生の主宰される「女わざの会」によるもので、この地方に伝承されてきた布に関する家の中の技術を掘り起こした貴重な展示会でした―で、私は田所キクノ先生と出会ったのでした。先生は当時87歳でした。すでに足を悪くされていたにもかかわらず、「自分の持っている技術をすべて次ぎの世代に伝えたい」と宮城県の南部にある丸森町からはるばる出てこられたのでした。
阿部き志さん90歳 田所先生は保健婦として活躍された方でした。定年後、福島県川俣に通って草木染めや織りの技術を習得し「高齢者センター織物部会」の設立に尽力されました。先生は、母親が繭から糸をとり、織り上げた反物を行商して家計を支える姿を見て育ったので、定年後は染織をしようと自然に思ったそうです。
丸森町では、江戸中期から養蚕がなされてきました。福島県伊達地方が養蚕の先進地であったため、地域的にも近いこの地方は、その影響を色濃く受けて発達しました。町の北部を流れる阿武隈川の流域が養蚕の適地となり、最盛期である昭和40〜50年代には年間600トンもの繭を産出する県内有数の産地となりました。その後、養蚕自体が衰退の一途をたどり丸森町でも養蚕農家は激減しましたが、今も10軒が残っており年間4.5トンの繭を産出しています。
養蚕業とは家蚕に桑を与えて繭を作らせ、生糸を生産して絹織物に仕上げる産業です。古来より子女の助けによって行われてきた農家の副業でした。特にこの地方では、江戸時代のこの地方を治めていた中島家が特産品を作ろうと、伊達地方の技術と織機を持ち込み広めたことにより「金山紬」が生まれました。養蚕農家では出来た繭を座繰り製糸し、山漆や栗などの植物や泥で染めて縞や格子柄を織りました。
この織物は仙台藩により領内の特産品として幕府への献上品となるほど優れた織物でした。
阿部き志さん90歳 明治に入り製糸工場ができ、機械による紡績が盛んになると「金山紬」は廃れてしまいましたが、明治後期以降も丸森の繭を使って作られる織物は「丸森紬」と呼ばれ、その生産は推奨されました。養蚕と製糸の分業化が進み養蚕農家での生糸の生産はなされなくなりましたが、自家用として、あるいは寡婦の生計を支える業として養蚕から製糸そして製織までの技術がこの地方には伝承されてきたのでした。
田所先生と出会った翌月から私の丸森通いが始まりました。丸森には「身しごと会」や「高齢者センター織物部会」、「佐野地織保存会」など真綿や織りに関わるグループがあります。特に「佐野地織保存会」では、花嫁修業として教えられてきた「桑をつみ、蚕を飼い、糸を紡ぐ」そして平織りや紬を織る技術の保存と伝承が行われてきました。
田所先生が積極的にひき会わせて下さったこうした人々との繋がりの中で、やっと座繰り糸の制作に着手できたのです。
まず、繭を沸騰した湯に一気に入れ一度差し水をし、再び沸騰するまで待ってから火を止め、そのまま20分〜30分間蒸らします。丸森の繭を群馬の友人に使ってもらったところ、煮繭時間の短い群馬方式では糸が途中で切れてしまうことが多いそうです。
25〜30粒の繭から出た糸を手で引き上げては座繰り機で巻き取ります。奥州座繰り機は上州座繰り機に比べ動力の伝わり方に遊びがあるので、薄くなって蛹がはずれた繭が糸と一緒に繰られたりすると、空回りしたりベルトがはずれたりします。つまり細くて節のない糸を作るのに適した座繰り機なのです。
煮繭がうまくいくと手で引き上げたときに自然に少し撚りがかかります。そうして引き出された糸を石に結わえた馬の尻尾の毛の間を通して扁平にするのですが、糸をつぶすことで抱合が良くなるそうです。
その後あげ返しをして、2本あわせて撚りをかけると着尺用の150〜200デニールの糸が出来上がります。扁平で節の少ない糸です。抱合はあまりよくないので撚りをかけなければなりませんが、とてもつやの良い力強い糸ができます。
10月に行った座繰り講習会では6名の参加者がありました。実際の蚕や繭を見ながら養蚕農家の佐藤靖さんに繭ができるまでの話を聞いた後、それぞれが煮繭をして、1人一台の座繰り機を使って糸を引きました。
阿部き志さん90歳 奥州座繰りは両手を使うので、巻き取るだけで精一杯。繭の粒数まで気を配るのが難しく、あげ返しのときに糸が切れるトラブルが続出してしまいましたが、みんなとても楽しかったと仰ってくださったのでほっとしました。今後もこうした講習会や特産品作りなどを丸森の織り手たちとともに続けていきたいと思います。
日本の養蚕はまさに危機的な状況です。この5年のうちにすっかり消えてしまいかねません。養蚕がなくなることは歴史的な損失であるだけでなく、繭からの糸作りの技術を失ってしまうことにつながります。
製糸業界では均一な繊度の節のない糸を目指しますが、それは機械で織ることを前提にしているからでしょう。手織りであれば、繊度ムラや節はむしろあった方が面白いのです。糸作りをしていて、機械のために作られた糸と手織りに適した糸とでは価値観が違うのだと思いました。私にとって養蚕は失くしてはならない制作の原点です。
経済的に成り立たなければ養蚕は残せません。外部との連携ができるように微力ながら力を尽くしたいと思います。
私は仙台で着尺や帯の制作と染め織りの教室をしています。作品製作や糸作りなどまだまだ課題が多く技術も磨かなければなりませんが、それと同時にその技術を次の世代にも伝えたえなければと怠けごころに鞭打つ毎日です。

「染織情報α」2010年1月号に掲載

日本の養蚕日本の養蚕

日本の養蚕日本の養蚕業は余り知られることなく、今その幕を閉じようとしています。
昭和37年の生糸自由化以降、養蚕農家は劇的にその数を減らしてきました。現在、養蚕農家1300戸、生産量500トン、国産繭は絹製品の1パーセントにも満たない状態です。
現行対策として、国から繭1キロに対して約1500円の補助を受け、やっと支えられている状況です。しかし19年12月に新たな蚕糸対策が発表され、蚕糸・絹業システムの形成促進に対する支援に順次移行されることになりました。つまり、3年後に今までの補助金は打ち切られるということです。
そして産地提携システムを組んだところには、繭1キロに対して2000〜3000円の定額交付金が1次金で支払われます。その交付金に対しては使われ方の規制も、その後の保障の規制もありません。
繭代は現行の2000円を維持しようとすれば糸代は1キロ20000円以上となります。輸入糸が1キロ5000円程度という状況で、果たして産業として成り立つのか非常に厳しい現状です。5年後に、果たして日本の養蚕業、製糸業は残れるのでしょうか。

養蚕業、製糸業の歴史は深く、明治政府の揚げた「殖産興業」の一翼を担ったのが富岡製糸場だった事からも分かるように、近代日本の礎を築いたのが製糸業でした。また戦後も復興の軸となるほど、養蚕・製糸業の技術は高く、優良な繭や糸を作ることができました。今もその技術は世界的に認められ、日本独自の優秀な蚕品種を持ち、遺伝資源を持っています。また飼育技術も高く発展途上国の技術指導の望まれるほどです。
養蚕・製糸業が残っている群馬県では、県をあげてこの問題に取り組んでいます。すでに産地提携システムとして動き始めているプロジェクトもあり、県・農協・呉服店との協力体制ができています。
宮城県では千總という京染めの大きな会社が入ってきて、提携システムを組む方向で進行しています。
丸森には養蚕農家としては最年少の20代の若者がいます。また繭から糸をつくり織るまでの一連の技術が残っています。それは上州座繰りとは道具も違う、奥州座繰りです。そうした各地に残る技術も養蚕・製糸業とともに失われてしまうのでしょう。私たちにできることは何かないのでしょうか・・・

2009/1月20日
日本の養蚕

小学生の染め体験小学生の染め体験

貝森小学校仙台市の貝森小学校2年生(15名)のクラスで草木染の体験学習をしました。
担任の佐藤淑子先生の発案により、毛糸を染めてマフラーをリリアン編みしようというのです。
前日に、染材としてセイタカアワダチ草と萩を子供たちが採って5センチほどに切って用意をしておいてくれました。
玉ねぎの皮も各自家から持ち寄りました。毛糸も自分たちで玉からかせにしました。当日は媒染をしている間に、まず染材を煮出して染液をつくりました。できた染液に
毛糸を投入し、それから2時間煮染めをします。その工程を人の話しをよく聞き、積極的に自分たちで行いました。
貝森小学校 染めている間に、どの草木で染めたものかクイズをしたり、真綿からの糸紡ぎや機織りの実演と体験をしました。
染め上がった毛糸は給食を食べている間にお母さん方が仕上げをし、干しておいてくれました。5時間目、毛糸を見にきた子供たちは部屋に入るなり「わー!」と歓声をあげました。
身近にある草木を採ってきて染めるというのを、子供たちに体験させたいと以前から思っていました。今回このような形で実現できて、子供たちの反応にこちらも感動しました。
何度も打ち合わせをし、担任の佐藤先生の当日までのご苦労は本当に大変だったと思います。
しかし、子供たちにとっても、私たちにとってもとても貴重で楽しい体験となりました。

2008/10月28日
貝森小学校貝森小学校

丸森との出会い丸森との出会い

森田先生 2004年10月、一関で「いのち蘇る布細工展」が行われました。この展示会は前沢の森田珪先生が主催される「女わざの会」によるもので、衣食に関する昔からこの地方で伝承されてきた家の中の技術を掘り起こし伝える貴重な活動を続けていらっしゃいます。この展示会では共同制作によるタペストリー、会員の制作した大きな座布団、風呂敷、古布など丁寧な仕事が数多く展示され、またおいしい郷土料理までご馳走になるという心も体も満たされる展示会でした。

 その展示会で私は丸森の田所キクノ先生と出会ったのでした。先生は当時87歳で、すでに足を悪くされていたにもかかわらず、「自分の持っている技術をすべて次ぎの世代に伝えたい」と丸森から一関まで出てこられたのでした。その熱い思いにと
ても感動し、私はまさにそれを教えていただきたいのだと、その場で弟子になりました。

田所先生ちょうどその月で仕事をやめることになっていた私は、これは天の采配だと思いました。以前から糸つくりに興味があり、繭から織りまで一連の仕事を身につけたいと願っていた私には本当にありがたい出会いでした。

 11月から片道1時間半の丸森通いが始まりました.。機場に行くといつももう先生は、寒いのに待っていらっしゃいました。その並々ならぬ熱意と暖かなお人柄に、ただただ頭の下がる思いです。しかし寒さや先生の体調や記憶の悪化など困難なことも多く、1を聞いて10を分かるようになろうと必死で習いました。

 先生から機を譲り受けたとき、私は機と一緒に先生の思いをいただいたのだと、その技術と思いを受け継ぐために努力し、さらに次に伝えることが私の役目なのだと思いました。

 そうして丸森に通ううちに、耕野の「身しごと会」や丸森の「高齢者センター織物部会」、「大内地織り会館」の方々との出会いもあり、大きく世界が広がりました。今はその方々とともに糸つくりを勉強しています。

 丸森は古くから織物文化の根付いた地域でした。その歴史と織りについて、また現在かかえている養蚕の問題について、少しでも御伝えできればと思います。

2008/5
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